19世紀にアメリカに存在したノートン皇帝とは!?
アメリカ合衆国では1859年9月17日から没日の1880年1月8日まで、皇帝が存在した。名前はジョシュア・ノートン(皇帝ノートン1世)。彼の死後、合衆国皇帝を名乗りまた地位に就いたものがいないため、現在まで唯一の合衆国皇帝である。相当な人気はあったものの、自称”皇帝”である。
◉皇帝即位宣言前
ノートン一世ことジョシュア・ノートンは1814年にイギリスの資産家の家に生まれた。 南アフリカで育った彼は1849年にサンフランシスコに邸宅を買い、そこへ移住。 父親の遺産を投資に活用し、成功した実業家となったが、ペルーの米投機に失敗。 破産し家も失い、約一年行方不明となる。
◉皇帝即位宣言
一年間の失踪の後、ノートンは、合衆国の体制である共和制、連邦制が著しく不備のあるものと考えた。これを解決する手段として、「絶対君主制」の導入を試みたのである。事実、彼の統治期間において、奴隷制度の限界から南北戦争が起こっている。1859年9月17日にサンフランシスコの新聞各社に「合衆国皇帝」として即位宣言を送った。 以来、21年間にわたりノートン一世の統治が、あるいはジョシュア・ノートンの皇位請求活動が始まった。
「大多数の合衆国市民の懇請により、希望峰なるアルゴア湾より来たりて過去九年と十ヶ月の間サンフランシスコに在りし余、ジョシュア・ノートンはこの合衆国の皇帝たることを自ら宣言し布告す。」
――合衆国皇帝ノートン1世
◉ノートンによる勅令
新聞社は面白がり、皇帝ノートン1世即位を記事に。するとたちまち新聞が売れ、さらに彼の談話「勅令」を毎日掲載するとさらに売れた。勅令とは皇帝の指示だが、「市内の街灯をあと5ワット明るくせよ」「犬のフンを片付けぬ飼い主は罰金2ドル」「天然痘予防に貢献した医師を市は表彰せよ」「奴隷を解放せよ(リンカーンの2年前)」など、その内容は以外にも的を得たもの。上記の名言も彼が出した勅令で、これを市議会が本当に可決した。今ではクリスマスになると世界中で街路樹の飾り付けを行うが、これがその始まり。さらに最も革新的な勅令は「サンフランシスコ湾に橋を架けよ」である。この一見不可能だと思われた大事業は、72年後に彼が述べたコースの通り完成した。それがゴールデンゲートブリッジである。
「朕が命じたことについて、サンフランシスコの市民はオークランドの架橋計画および隧道建設計画検討の資金を準備し、どちらの計画がより優れたるかを決定すべし。当市の市民は当命令を無視しており、朕は我が権威を顕示せんがため、かくのごとく命令する。彼らがなおも朕に逆らう場合、陸軍は両議会議員を逮捕すべし。」
――合衆国皇帝ノートン1世
ノートンの政務として彼の支配下であるサンフランシスコの街並みの視察があった。ノートンは、サンフランシスコを市民の生活に不自由がないか丹念に見て回り、時には市民と談義した。
ある時、若い警察官が彼を精神異常者と決めつけ、精神病院に放り込もうとしたのである。ノートンの行為に対し、サンフランシスコの市民及び新聞は、直ちに抗議の声をあげた。警察署長はすぐさまノートンを釈放し、公式な謝罪をした。以後、警察官はノートンに対し敬礼をもって迎えるようになった。
またある時、ノートンが乗った食堂車で、それを経営するセントラルパシフィック鉄道がノートンに料金支払いの請求をしたため、ノートンはこれに対し勅令をもって、この鉄道会社の営業停止を命じた。これに驚いた鉄道会社は終身無料パスをノートンに奉呈して謝罪した。
ノートンはサンフランシスコの市民に敬愛されていた。ノートンが食事をしたレストランでは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と書かれたプレートがしばしば掲げられ、サンフランシスコの劇場はノートンの来場まで、幕をあげることはなかった。ノートンが到着すると、来場者はみな起立して迎えた。
◉ノートンによる国債発行
ノートンは個人的財政が苦しくなると銀行に行き、勝手に作った国債を発行し金を要求。金額は5ドル10ドルと、至って小額。銀行は快くその金を支払った。国債は当時のサンフランシスコで通用したのみならず、現在ではその希少性からオークションでは高額で取引されている。
皇帝ノートン1世は市民に愛されたまま61才でこの世を去った。葬儀には3万人が参列した。自称”皇帝”ではあったものの、市民から多大なる人気を博し、社会への貢献は相応にあったものと言える。